フィールドワーク酔夢譚

吉田 雅之
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吉田 雅之

ミュージアム、ライブラリー、アーカイブズ、さらにはコミュニティーセンター、NPOや地域サークル
など、地域に根ざしたかけがえのない施設や活動が、日本全国いたるところに存在しています。個別や連
携、あるいはテーマ別、総合的など接点は多様な方がいいと思うのですが、施設や活動の中で、利用者や参加者が、自らが住まう場所には歴史や文化、人々の暮らしがあって、時の流れとともにそれらが積み重なって現在の姿があり、その流れの中に自分も存在していると実感できる機会が増加してくれれば、と感じています。それらの体験から、地域や社会とのつながりにも変化があらわられるのではないかと思っています。
忘れかけていた、ささやかだけれども、大切な何か。そんなことを思い出させてくれた夢物語が、記憶
の彼方に行ってしまう前に書き記しておこうと思います。

(「先生」とみんなが呼んでいる人に連れられて、クラス仲間といっしょに学校のすぐ近くを歩いている。青空の下、やわらかな日差しがふりそそいでいる。「先生」が学校の先生なのか、博物館の人なのか、この辺に住んでいるおじさんなのかはわからない。そんなことはどうでもいい。とにかくこのおじさんについて行くと何か楽しいことがありそうだ)
「さあ、これからみんなを面白い所に連れて行くよ」
(住宅地の舗装道路からはずれ、山沿いのでこぼこ道へと入って行く)
「みんなが今歩いているこの道はどんな道だろう。何の道だと思う」
「山道!」
「林道!」
「そう、確かに山に向かってのびている。コンクリートの道じゃない。林の中を通っているね。みんなが歩いているこの道はむかしの街道で、このあたりにはこの道しか通っていなかったんだ」
「向こう側を見てごらん。今ちょうどバスが走っているのが見えるね。みんながいつも通っている学校の前の道路は車が走るようになってから造られた新しい道なんだ。今では使われなくなってしまったこの道、今みんなが歩いている川沿いのこの細い道がむかしの道、車が走り出す前、何百年も使われて来た道なんだ。この道を何千、何万、数えきれない程たくさんの人たちが通り過ぎて行った」
「ちょっと自分の足もとをよく見てごらん。ほら、そこ、北条君の靴の下、むかしの人の足跡が残っているだろう」
(みんな足もとを見てにやりと笑う)
「今の道路と違って道幅は狭いし、でこぼこだね。これでもむかしは人や馬、荷車が通るのには充分だった。自転車も車も無かった時代、どこかへ行くには自分の足で歩いて行った。むかしはコンビニやデパートなんて無かったから、まちの市場まで出かけるには、日が昇る前に家を出て、日が暮れる頃に帰って来るのは、この辺りに住む人たちにとって、当たり前のことだったんだ」
「さて、川上に向かってちょっと歩いて行ってみようか」
(山の中に入って行くにつれて、だんだん鬱蒼として薄暗くなって来る)
「先生、もう疲れたよ。どこまで行くの」
「もうちょっとがんばって奥まで歩いてみよう。おもしろいものがあるから」
「川が流れる音が聞こえてきたね。そこの木の上のほうに緑色の実が成っているのが見えるかい。何の実だろう」
「あっ、クルミだ」
「そう、よく知っているね」
「クルミはあんなふうに、ぶどうみたいになっている。みんなが普段食べているクルミの実は、まわりの緑色の部分が腐って残った種で、それを割って食べているんだよ」
「はい、ちょっとみんな止まって。ここでまわりを見渡してごらん。何があるかな。見つけた人」
「先生、草むらの中になんか建ってるよ」
「草むらの中に石の塔があります」
「お墓?」
「なんだろう」
(子どもたちは石の塔に近づいて行く。しかし先生は近づかない。離れたところに立っている)
「先生、なんか字が書いてあります」
「なんて書いてあるのかな」
「にじゅうさん」
「よる、なんとか」
「にじゅうさんや」
「そうだね、二十三夜塔と書いてあるね」
「これは何の塔だろうね」
「先生、十五夜じゃないんですか」
「そう、みんなが知ってるものに十五夜があるね」
「十五夜の日にはみんなの家では何をするのかな」
「月見!」
「ススキを採ってきて飾ります」
「月見とだんご」
「そうだね」
「十五夜の日に家でお月見をしたり、お団子を食べたり、何かしている人、手をあげてみて」
(子どもたちがまわりをみまわしながら手をあげる)
「なるほど。十五夜の日にみんなの家でお月さまを見ながらお団子を食べたりするのと同じように、むかしは月待ちと言って、二十三夜の日にみんなで集まってご飯を食べたり、お酒を飲んだりしながら月を拝む行事があったんだ。集まる仲間を講と言って、その講の人たちが建てたものがこの二十三夜塔なんだね」
「むかしの人は月を仏様として拝んでいて十五夜は大日如来、二十三夜は勢至菩薩として拝まれていた。今度、自分の家のまわりにどんな石塔があるのか探してごらん。そして近くに住む人たち、おじいさんやおばあさんにいろいろなことを尋ねてごらん。きっとおもしろい話をしてくれるはずだから」
「先生、二十三夜ってなんですか」
「そうだな・・・、月が見えない時を新月と言って、新月から三日月になってだんだん見える部分が増えて来て、23日目、東の空に月が出たときに月の下半分が見える、下弦の月と呼ばれる時が二十三夜。弓の弦の部分が上なのに下弦と呼ばれるのは、月が西の空に沈む時の姿をさして呼ぶからなんだ。毎晩月がどこに出ているか探してごらん。月が出る時間や月の形がどんどん変わって行くから」
「先生、何だか難しくてよくわかりません」
「そうか。ちょっと説明が難しかったかな。実は先生も宇宙のことはよく知らないんだよ。今度の十五夜が来るまでにはみんながわかるようにしておくよ」
「先生、お月様の話、楽しみにしています」
「さてと、この二十三夜塔なんだけど、実はここでお化けが出た、という話が伝わっている」
「え~」
「うそ~」
(子どもたちは、顔を見合わせてそれぞれ驚きの声を上げている)
「どんなお化けですか」
「この近くに住んでいる大石さんの家のおじいさんが、子どもの頃におじいさんから聞いたお話しが残っている」
「まだ電気がない頃、今みたいに街灯も懐中電灯もない時代、夜道を歩くのに、提灯を手にさげて歩いていた頃の話だ」
「提灯って何ですか」
「お祭りや盆踊りの時に通りにたくさん吊してあるのを見たことないかな。今のものは中が電球だけれどあの電球の替わりに中に蝋燭が立っているものと思えばいい」
「ああ、お店の名前とかが書いてある、紙で出来たぼんぼりみたいなもののことですね」
「そうだね。竹の骨組みに和紙が貼ってあり、じゃばらになっているから、使わない時にはたたむこともできるようになっている。今の懐中電灯だね」
「さて、おじいさんのお話だと、何代も前の先祖の勘兵衛さんが、いつものように町から帰ってくる途中この場所にさしかかったとき、二十三夜塔の前に人がしゃがんでいるのを見つけた。ちょうどあのカーブを曲がったところで気づいたらしい」
(みんな先生が指さす方向にさっと視線を向ける)
「日も沈んで真っ暗なのに、その日はなぜか人がしゃがんでいることが遠くからわかったそうだ。亥の刻だったと言うから午後10時頃だね。こんな夜更けに何をしているんだろうと思って、勘兵衛さんは提灯をかざしながら近づいて行ったそうだ」
「近づいて行くと、しくしく鳴き声が聞こえて来る。不思議に思ってさらに近づくと、小さな男の子がこの二十三夜塔の前にしゃがんで泣いていたそうだ。こんな夜更けに子ども一人でどうしたんだろう、と男の子に提灯をかざした。『ぼうや、どうしたんだい。こんな夜更けに一人で泣いてい・・・』言葉をかけると男の子がふっと振り向いた。ぼおっと白く見える顔には目も鼻も口もなかったそうだ。勘兵衛さんはぎゃーっと大声を上げて提灯を放り出し、この道を一目散に家を目指して走ったそうだ」
「きっとのっぺらぼうだ」
「先生、のっぺらぼうでしょう」
「そう、のっぺらぼうだ。のっぺらぼうは・・・ちょうど今、油井君がいるところにしゃがんでいた!」
「ぎゃー」
(子どもたちはいっせいに二十三夜塔から飛び退き、同時に顔を見合わせて笑いだした)

現代に暮らす自分と歴史とのなんらかの接点、つながっているのだ、ということが感じられた時、日々の暮らしや時の流れに対して、さらには自分の人生についての考え方、意識に変化があらわれるのかもしれません。歴史との出会い、“ものがたり”との出会い、フィールドワークはその機会を与えてくれるように思えます。自分の暮らしを基点にしてひろがる世界、周辺地域への興味関心のさざなみ。小さなさざなみはやがておのずと自らが住むまち、そして地域へとひろがり、さらには現在から過去、そして未来へとひろがって行くことでしょう。
どんなものやことにも物語は存在します。その物語へのまなざしを大切にして「もの」や「こと」への愛しみの心を育みひろげて行きたいと思います。

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